こんにちは。
今回は、横須賀市久里浜にある「ペリー記念館・上陸記念碑」について紹介します。
1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる艦隊(いわゆる黒船4隻)が浦賀沖に来航し、最終的に久里浜沖へと停泊しました。
黒船来航の歴史

浦賀奉行・戸田氏栄は、与力の中島三郎助を旗艦サスケハナに派遣しました。中島は「副奉行」と偽って乗艦し、大統領親書の目的を確認しましたが、身分が低いとして受け取りを拒否されました。続いて香山栄左衛門が「浦賀奉行」と称して出向きましたが、ペリーは高位の役人以外とは交渉しないとして応じませんでした。
ペリーは「3日間の猶予を与えるが、受け取り役が来なければ上陸して将軍に直接渡す」と威嚇します。艦隊は同日、武装した短艇で浦賀湊を測量し、江戸湾内の20km地点まで侵入しました。幕府はこれに抗議しましたが、ペリーは「不平等な国際関係を排除すべきだ」と主張し、取り合いませんでした。
幕府はこの事態に衝撃を受け、7月12日、「ひとまず受け取って速やかに退帆させる」として国書を受領する方針を決定します。病床にあった将軍・徳川家慶に代わり、老中首座の阿部正弘が主導しました。7月14日、久里浜にてペリーと戸田・井戸両奉行が会見し、親書や信任状などを受け取ります。返答は1年後とし、外交交渉は行われませんでした。
その後ペリーは、艦を江戸を望む位置まで進めて再び威嚇し、小柴沖に戻ります。7月17日、艦隊は江戸を離れ、琉球経由で香港へと向かいました。
湾内では祝砲として空砲が撃たれ、当初は混乱を招きましたが、のちに町民の中には花火のように楽しむ者も現れました。来航直後から浦賀や江戸には見物客が押し寄せ、佐久間象山や吉田松陰も訪れています。
この騒動を風刺した狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」は、黒船来航による国中の動揺を象徴するものとして知られています。
ペリー上陸記念碑

1901年(明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」の除幕式が行われました。碑文は、初代内閣総理大臣・伊藤博文による筆です。
太平洋戦争中の1945年2月、日米間の敵対を背景に、記念碑は一度引き倒されましたが、戦後まもなく同年11月に復元されました。
この記念碑の建立は、1900年に来日したペリー艦隊の元乗組員であるアメリカの退役少将ビィアズリーが、久里浜に記念碑が存在しないことを遺憾とする演説を行ったことがきっかけとなりました。募金や明治天皇からの下賜金によって建立され、除幕式には桂太郎首相をはじめとする閣僚、ビィアズリー、ペリーの孫ら約1,000人が参列し、盛大に執り行われました。
ペリー記念館

1987年(昭和62年)、横須賀市の市制80周年を記念して建てられました。1階は、黒船来航を再現したジオラマ模型を展示するホールとなっており、2階ではペリー上陸に関する貴重な資料が展示されています。



最後に
横須賀市は、日本の幕末史にとって大きなターニングポイントとなった地域です。ペリー来航だけでなく、横須賀製鉄所建設(現在は米海軍基地)など近代日本の幕開けに相応しい土地でもありました。
そういった横須賀の歴史を、今後は少しずつ語っていこうと思います。

アクセス情報
横須賀市久里浜7-14 京急久里浜駅からバス「野比海岸行」(約10分)「ペリー記念碑」下車
料金 無料 046-834-7531(ペリー記念館)
休館日
・月曜日
・休日の翌日(その日が月曜日にあたるときは火曜日)
・12月29日から翌年1月3日まで 横須賀市 ペリー公園ペリー公園は、ペリーの上陸を記念して作られた歴史公園で、園内にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館などがあり、歴史的資料やジオラマなどを展示しています。
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