1か月半、更新をさぼってしまいました💦
基本的に私は「noteでの執筆」をメインにしています。
このWordPressブログについては、どういう内容を発信すればよいか、いまひとつ方向性がつかめず、なかなか更新できずにいました。
そんな中、久しぶりにこのブログを開き、改めて「自分が伝えたいことって何だろう?」と考えてみました。そして、ふと浮かんできたのが今回のテーマ——「無職でも、生きられるはず」という言葉でした。
昨年6月に、35年間勤めてきた組織を退職してから、間もなく1年になります。
現在の私は、正社員としての仕事には就いていませんが、オンラインの事務作業や単発のアルバイトを細々と続けながら、自分なりに毎日を積み重ねています。
もちろん、不安がまったくないわけではありません。収入が不安定なこと、社会的な肩書きがないこと、そして自分自身への葛藤…。
けれどその一方で、「働いていない=生きていけない」という思い込みに、私自身もずいぶん縛られてきたなと感じています。
「無職」という言葉に過剰に反応する社会、そしてそれに対する自分の中の焦り。
けれど、本当にそれだけで人生が決まるのでしょうか?
少なくとも私は、「働く/働かない」という二者択一にとらわれず、もっと自由な選択肢があってもいいのではないかと思っています。
そんな中、先月「無職サミット」という催しがあり、私も参加させていただきました。

このイベントを通じて、私の気持ちも少しずつほぐれていきました。
「無職でも生きていけるはず」「働いていなければならない」という思い込みや縛りから、少しだけ解放されたように感じています。
無職サミットに参加
先月、「無職サミット」というイベントに参加しました。実際に足を運んでみると、そこにはさまざまな背景や考えを持つ方々が集まっていて、思っていた以上に多様な雰囲気に驚きました。
参加されていた方が全員「無職」というわけではなく、普段はお仕事をされていて、その帰りに立ち寄られたという方もいらっしゃいました。

私は主催の方たちに、「無職になって(早期退職をして)10か月になります」とか、「どうしても焦ってしまうんですよね」といった話を、少し緊張しながらもさせていただきました。
参加された皆さんにほぼ共通していたのは、働くことに過剰な価値を置かず、むしろ「労働は悪だ!」と考えている方が多かったことです。私もその考え方に深く共感しました。
私は結構長くこの場所に居させていただきました。主催の方は本屋さんを営んでいて、自ら執筆活動もされております。
また、現在ニートという状況を活かして、いわゆる「何でも屋」的な仕事をされている方もいらっしゃいました。話を伺っているうちに、考え方次第でやれることは意外とたくさんあるのだと改めて感じました。
参加された方の中には、長い間働いていない方や、普通の就職を否定しフリーランスとして働いている方、小説家を目指していたものの断念し、現在は投資などで生計を立てている方、さらには子ども向けのスモールビジネスを行っている方もいらっしゃいました。
また、参加者の中には「今後はもう働きません!」とはっきり宣言される方もいました。その方はとても穏やかで物腰も柔らかく、お話を伺うと、幼い頃にいじめを経験され、一般的な社会の流れから背を向けて生きると決意されていることが伝わってきました。
参加して感じたことは、大切なのは「その人それぞれの価値観や考え方」を尊重することであり、犯罪を犯したり、人倫に反したりしない限り、間違った生き方など存在しないのだということです。労働に過剰な価値を置かない無職サミットの参加者の方々ほど、むしろ人間として真っ当に生きようとしていると私は思いました。
むしろ、労働に邁進し勝ち組を誇るような人の中に、人倫に反する行動をする方がいるのではないかと感じるのは言い過ぎでしょうか。
もっと緩く考えてもいいのでは
これまで「働いていない=焦るべきこと」と無意識に思い込んでいた自分がいました。
けれど、「ずっと働き続けることが正解」なのか、「一度立ち止まってはいけないのか」と問い直してみると、答えは案外シンプルな気がします。

この無職サミットで、私とほぼ同世代と思われる女性の方と出会いました。その方は、もう20年近く働いていないとのことでした。いろいろとお話をする中で、私自身の境遇についてもお伝えしたところ、次のような言葉をかけてくださいました。
「好きなことをやっていいと思う!」
「早期退職されたなら、あと10年くらいで厚生年金が出るんだし、それまでアルバイトでしのげば十分。無理して正社員を目指さなくても全然大丈夫だよ」
実は、その方の知り合いにも、私と似たような経緯で早期退職された方がいたそうです。しかし、その方は親や周囲の同調圧力に押されて再就職を選びました。ところが、就職した先はブラック企業で、心身ともに疲弊し、最終的には体調を崩してしまい、好きなことに取り組む余裕すら失ってしまったのだそうです。
こうした話を聞いていると、「自分が本当に望む生き方」を否定してまで、何が何でも再就職しなければならない——そんな考え方は手放したほうがいいのではないか、と感じるようになりました。
もっと緩やかに、自分らしいペースで人生を考えてもいいはずです。世の中にあふれる“成功者の物語”や、“サバイバル的な生き残り戦略”に振り回される必要なんてない。そうした価値観に無理に同調しなくても、自分自身の生き方を選んでいい——今は、そう強く思っています。
無職か働くか、どちらかを選ばなくてはいけないわけではない

「無職サミット」に参加したからといって、私は「無職でいい」「無職でいたい!」と完全に思い込んだわけではありません。現在も求職活動は続けていますし、できることなら、ある程度安定した収入が得られる環境を築きたいという思いは変わっていません。
ただ一方で、「就職しなければならない」という思い込みに、自分自身を縛りつけるつもりもありません。もっと自由であっていい。自分を「働かなくてはいけない」という義務感だけで追い込む必要はない。今回の無職サミットへの参加を通して、私はあらためてそう感じました。「もっと自由でいい」「もっとゆるくていい」。そんな生き方の感覚を、少しずつ自分の中に取り戻している気がします。
そもそも日本、あるいは先進国の多くの社会では、「普通に学校へ行き、普通に就職し、普通に定年まで勤め上げる」ことが“当たり前”の人生モデルとされてきました。20世紀の社会はこの価値観を基盤に回っており、実際に高度経済成長期にはそのモデルが一定の成果を上げたことも事実です。
しかし、成長が前提とならない今の時代においては、その「普通」がすでに現実と乖離してきています。それでもなお、「昔ながらの努力」や「正社員としての安定」にこだわる価値観を押しつけようとすればするほど、そこからこぼれ落ちる人々を苦しめてしまう――私はそんな現実に疑問を感じています。
まとめ
「無職」という言葉に、私たちはついネガティブな印象を抱きがちです。でも、それはただのラベルにすぎません。たとえ「無職」という肩書きであっても、自分の意思で選び、考え、日々を生きているのなら、それは立派な「働き方」であり、「生き方」だと思います。
私はこれからも、「働く」「働かない」という二項対立に自分を当てはめるのではなく、自分に合ったペースやリズムを探しながら、無理のない形で日々を重ねていきたいと思っています。
そしてこのブログやnoteを通じて、同じような思いや迷いを抱えている誰かとつながることができたなら、それが何より嬉しいことです。
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